工坊

日常の想いや出会いをフランクに綴ります。

 お盆迄には日があるものの、伊勢原にある寺まで早めの墓参りに出かけてきました。大山の麓にある見晴らしのいい霊園で生前父が気に入って購入したものの、足腰が不自由になるにつれて私たちのみが行くことが多くなってきました。私たちもまた、元気なうちは継続しなければなりません。
工坊
IMG_0123_TiltShift























IMG_0131_TiltShift

 今年も定例のVIVAキャンパークラブによる北軽井沢のキャンプ場に行ってきました。10年近く毎年欠かさずに出かけています。オーナーのご夫妻とも私的なお話もできる間柄になっているメンバーです。今回は私の子供たち家族も含め、今までで一番大勢の参加となりました。次世代に引き継がれること期待している自分たち団塊世代仲間です。
工坊
20160724ビバ浅間_0143

























VIVA Camper Club サイト 

関連ブログ記事

 浅間山の麓。鬼押出しに寄りました。キャンパークラブの定例キャンプに向かう途中です。ゴツゴツ感のある荒涼たる風景の中でも、草木が少しずつ成長しているような感覚です。清々しい風が心地よい天候でした。遊歩道の一角に初めて見たような松ぼっくりと光るコケが印象的でした。
工坊
P1050037























P1050039





















P1050042





















P1050044





















P1050043

O『いやはや、時のたつのは早いもの。お前が俺の前に現れた200410月から、

  既に、12年目の付き合いとなった。今でも、俺の体調や季節の変わり目、特に

  湿度の高い時は、いまだにお前の活動力が増しているような感覚を味わっているよ。』

W『相変わらずOのお傍に置いていただいております。だいぶ前の会話だけど、Oの人生

にとって、俺の存在は結構大きかったんだろ? 実際どうなの??

O『大きいなんてもんじゃないよ! 自分自身と向き合った時間がW、お前の登場で桁違いに

大きくなったと思うよ。』

W『こんな二人の会話と題して、漫才している俺たちも年取ってきたよね。文字通り、この

会話中は、Oは自分自身と向き合っていることを示すわけだからなぁ・・・』

O『もしも、昔登場したNしかいない状況だったら、こんな会話していないよね。』

W『ということは・・・・。Oは猪突猛進の連鎖の中から抜け出していなかったという

 ことだよね。』

O『この年になって、仮にWと初めて出会ったら、このような自分になっていたかどうか?

きわめて自信がないね。つまり痛みと辛さのスパイスを感触として味わうものの、心

が引きずられないようにと一定の距離を置く癖をつけるようなものかな・・・・?

W『俺たちの付き合いそのものだね。』

O『その通り・・・・だね。』

ANI_029          
                                 ANI_035

 パートの仕事の関係から、自分の周りに聞きなれないカタカナ言葉がいくつか登場してきます。専門家として、現場の講師やカウンセリングの仕事をされている先輩諸氏には、馴染みのある言葉でしょうが、自分にとっては知らないことばかり。多少は知ったかぶりをしないとまずいなと思う気持ちと、その意味を探ろうとする姿勢は、まだ健在のようです。『マインドフルネス』という文字に出会いました。同時に、ジョン・カバト・ジン博士の名前も。自分が、Wと出会い悶々としていたときに入院先の病院から頂いた本(心と治癒力Healing and The Mind)の中に、博士とのインタービュー記事が掲載されていました。『患者は、自分の心と身体の良い科学者でありなさい。』
記述の中で、一粒のレーズンの味わい方が妙に心に残っています。今ここの一瞬を大切に、自分の人生もその連続する『今』の積み重ねだということ。迷ったら、Wと出会った頃の初心に帰ること。そんな風に解釈して参りました。

7e5036d0.jpg  病院での待ち時間に、退院時にもらった本を読んだ。こころと治癒力と題する草思社からの翻訳本。Healing And The Mind というのが元の題名。医療に物理的・科学的志向を主とする西洋医学では計り知れない東洋医学やヨーガなどの精神的療法が患者に少なからず好影響を与えることを実証的に著名な医者とのインタビューにより導き出そうとする展開がその本の全体的なストーリー。その中で、痛みや苦しみなどを押し殺そうとするのではなく、共に生きてゆくための精神修行としてヨーガを取り入れている事例があった。自分に照らし合わせたら、療養期間中に自分の不注意で怪我をした右足先は物理的な時間と共に治癒している。一方、左足は脳神経の死滅により、どこまで慣れるものか、後遺症として一生付き合うことになるかもしれない。このとき無我夢中で民間療法でも片っ端からトライしてみようとする忙しい自分がそこにいる。しかしながら、そうではなくて今この時に、自分の行動の時間軸を際限なく緩やかにして、そう。。呼吸の波に身を任せ、寄せて返す波のごとく、今の自分を感じると共に、左足にある苦痛を客観視する心静かな自分がいる。身体的な苦痛に逃れるために、走り回る自分は、いつか心が身体の奴隷になっている。そうではなく、心が身体という物理体をどのように制御するかが、癌やその他の難病や後遺症という、いわゆる不治の病に侵された人々にとって大変な安らぎと、時として自己免疫効果を助長し患者自らが元気になるという。 さて、自分にそれだけの度量が備わっているか? 精神修行として捉える力がどこまで、ついてくるか? 自分の将来がかかっているような気もしている
<<2005.1.20のBlog記事より抜粋>>

工坊
マインドフルネス

このページのトップヘ